痕
- タナッセの『噛んでもいい』という台詞を使った「暗い場面」を作ってみましょう。 #serif_odai http://t.co/tiJvnLzgTU
噎せ返るような汗の臭いが辺りに立ち込めている。
閉め切った窓からは時折鈍い月の光と隙間風が入り込み、気味悪く肌を掠めていく。褥は乱れ、所々濃い灰色がその白さを穢していた。
「……私を、恨んでいるか」
腕のすぐ下に組み敷かれている彼女にそう問いかける。
亜麻色の髪は乱れ、波のように白い海に波紋を描いていた。
「いいえ。これは私が、そして貴方が望んだことでしょう?」
望んだこと。
それは本心だろうか。
それとも、建前だろうか。
私がこの関係を望んでいたのか、と問われれば、その全て否定することはできない。
かと言って、おいそれと肯首出来ることでもない。
特段彼女を憎んでいる訳ではなかった。なれど、心から愛している訳でもない。
結婚した今でも変わることはなく、真実の愛など恋愛譚に出て来るような夢物語は存在しない。
それは彼女も同じなのではないか。
この関係になることを、お互い進んで望んだ訳ではないはずだ。ただ、必要であっただけで。ただ、必然であっただけで。
「お前の事は未だによくわからん。何故、私と共にいる。何故疑問に思わない。何故、ここから逃げ出さない。お前ならばいつでも出来るだろうに」
「それは貴方も同じでしょう?違う?」
同じ。
何が同じなのだろう。
ああ、そうか。
「……口だけは達者なのだな、お前は」
それ以上口を開けぬように、唇に噛み付くように口付けてやる。
心を溶かす、などただの比喩表現に過ぎない。考えるだけ下らない。そんなものは、詩の中に薄ら寒い陳腐な表現として存在するだけだ。
どんなに体を肉薄させようと、伝わるのは体の温かみのみだった。
「……っ。お前とこうするたびに思うが」
「なぁに」
「……不愉快だと思わないのか。どうとも思っていない男に蹂躙され、邸に軟禁され、その身を縛られる事に何か感じたりはしないのか」
答えは期待していない。いつも決まって彼女は同じことを口にするからだ。
そして、また。
「私は自分を不幸だなんて思ってないわ。こんなに恵まれているんだもの。寧ろ僥倖。感謝致します、旦那様」
首に腕が回され、何がそんなにおかしいのかくつくつと笑っている。
「いつもそれしか言わぬのだな。答えるに値しないということか」
「どうかしら。たまには貴方の意見も聞きたいわ」
私は…… どう思っているのだろう。
いや、もう決まっている。答えは先程既に出した。
こいつと、何も変わらない。
不幸だとは――少なくとも今は――思っていない。
私がレハトを追い出せば良いのに、それをしないのもまた。
答えは口に出さずに、頬に噛み付いてやる。耳も細い首も、華奢な肩も、同じように。
その一つ一つに私を刻みつけて行く。痕が残るほどに、強く。
最後に噛む場所は決まって、左手の薬指だった。
彼女は指輪をしていない。
私もまた、つけてはいない。
「貴方は、それが好きね。でもずるいわ」
克明に、そのすらりとした指に私の歯型をつけてやる。まるで指輪をはめるように。
「……ならば、お前が噛んでもいいぞ。好きなだけ、何処にでも」
そう言うと、やはり彼女はくつくつと笑った。
そっと腕を取られる。
一拍の間が開くと、微かに痛みが走った。
彼女が私に痕を残したのも、また、私と同じように左手の薬指だった。
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2013.10.21
閉め切った窓からは時折鈍い月の光と隙間風が入り込み、気味悪く肌を掠めていく。褥は乱れ、所々濃い灰色がその白さを穢していた。
「……私を、恨んでいるか」
腕のすぐ下に組み敷かれている彼女にそう問いかける。
亜麻色の髪は乱れ、波のように白い海に波紋を描いていた。
「いいえ。これは私が、そして貴方が望んだことでしょう?」
望んだこと。
それは本心だろうか。
それとも、建前だろうか。
私がこの関係を望んでいたのか、と問われれば、その全て否定することはできない。
かと言って、おいそれと肯首出来ることでもない。
特段彼女を憎んでいる訳ではなかった。なれど、心から愛している訳でもない。
結婚した今でも変わることはなく、真実の愛など恋愛譚に出て来るような夢物語は存在しない。
それは彼女も同じなのではないか。
この関係になることを、お互い進んで望んだ訳ではないはずだ。ただ、必要であっただけで。ただ、必然であっただけで。
「お前の事は未だによくわからん。何故、私と共にいる。何故疑問に思わない。何故、ここから逃げ出さない。お前ならばいつでも出来るだろうに」
「それは貴方も同じでしょう?違う?」
同じ。
何が同じなのだろう。
ああ、そうか。
「……口だけは達者なのだな、お前は」
それ以上口を開けぬように、唇に噛み付くように口付けてやる。
心を溶かす、などただの比喩表現に過ぎない。考えるだけ下らない。そんなものは、詩の中に薄ら寒い陳腐な表現として存在するだけだ。
どんなに体を肉薄させようと、伝わるのは体の温かみのみだった。
「……っ。お前とこうするたびに思うが」
「なぁに」
「……不愉快だと思わないのか。どうとも思っていない男に蹂躙され、邸に軟禁され、その身を縛られる事に何か感じたりはしないのか」
答えは期待していない。いつも決まって彼女は同じことを口にするからだ。
そして、また。
「私は自分を不幸だなんて思ってないわ。こんなに恵まれているんだもの。寧ろ僥倖。感謝致します、旦那様」
首に腕が回され、何がそんなにおかしいのかくつくつと笑っている。
「いつもそれしか言わぬのだな。答えるに値しないということか」
「どうかしら。たまには貴方の意見も聞きたいわ」
私は…… どう思っているのだろう。
いや、もう決まっている。答えは先程既に出した。
こいつと、何も変わらない。
不幸だとは――少なくとも今は――思っていない。
私がレハトを追い出せば良いのに、それをしないのもまた。
答えは口に出さずに、頬に噛み付いてやる。耳も細い首も、華奢な肩も、同じように。
その一つ一つに私を刻みつけて行く。痕が残るほどに、強く。
最後に噛む場所は決まって、左手の薬指だった。
彼女は指輪をしていない。
私もまた、つけてはいない。
「貴方は、それが好きね。でもずるいわ」
克明に、そのすらりとした指に私の歯型をつけてやる。まるで指輪をはめるように。
「……ならば、お前が噛んでもいいぞ。好きなだけ、何処にでも」
そう言うと、やはり彼女はくつくつと笑った。
そっと腕を取られる。
一拍の間が開くと、微かに痛みが走った。
彼女が私に痕を残したのも、また、私と同じように左手の薬指だった。
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2013.10.21