痛みの名
- タナッセ愛情ED想定。暗いお話。
ヨアマキスは名誉の回復に必死になっている。
レハトと婚姻を結んでから、そういった類の噂が実しやかに流れるようになった。
無粋な噂話は背を付け尾を付け膨れ上がり耳に届く。
無論、地位や名声などに最早執着はなく、レハトと伴をしたのも彼女を愛していたからだ。
彼女との日々は私のそれまでの鬱々とした記憶を掻き消した。
誰かに愛され、誰かを愛すことがこれ程までに幸せなものだと今までの私は知らなかった。
愛おしいものに触れることができる。些細な喜びを共感することができる。
なんと素晴らしいことだろう。
そんな日々を噛みしめるように、今日もまたレハトと中庭を歩いていた。
するのは他愛のない会話だ。その瞬間がとても好きだった。
「あ、長椅子あるよ。タナッセタナッセ、一緒に座ろう」
不意に手を引かれる。
レハトはどうにもこういう突拍子のないところがあった。
仕方ないな、と苦笑する。澄み渡った昼下がりであるし、息抜きには良いだろう。
「おい、そんなに近づく必要はないだろう」
「くっつきたいの!」
誰が来るともしれないというのに、殆ど距離がないほどにくっついては私の顔を見上げてくる。
もう少し淑女らしい振る舞いをしてほしいと常々思うが、きっと贅沢な悩みだろう。
以前はそうした悩みすらもなかったのだから。
「ねね、そういえば新しい詩集できた?できたら見せてね」
「お前も物好きだな。私の詩でなくとも良いだろうに」
「もータナッセ分かってないなー。好きな人のだから読みたいんだよ」
こいつは…… 馬鹿というか素直というか…… 馬鹿というか。
恥ずかしげもなく言ってくる態度に、こちらが恥ずかしくなりそうだ。
「いいでしょ?」
「分かった分かった勝手にしろ。その代わり作業を手伝ってもらうからな」
あからさまにレハトの表情が歪んだ。何だその態度は。
お前には奉仕の心が足りないと諭せば、説教は聞きたくないなど生意気な口をきく。
頬をつねってやればいひゃいいひゃいと凡そ言葉になっていないことを言う。
不覚にも、子供らしい様子が愛おしく思えた。
私も傍から見たら相当惚気て見えるかもしれない。
「ほら、もういいだろう。そろそろ帰るぞ」
「ええー、まだタナッセといるー!」
「いちいちくっつくな!」
レハトを体から引き剥がしさっさと部屋に戻ろうとすると、辺りが不気味に静まり返っていることに気付く。
鳥の声も聞こえない。
何かがおかしい。
「おい、レハト……」
「え」
一瞬、何が起こったのか理解ができなかった。
突如としてレハトの眼前に降り立った黒い塊は、鈍色の刃を横に薙いだ。
眼前に鮮血が飛び散る。
レハトの体がぐらりと揺れ、地面に伏した。
白昼夢のように白くぼやけた世界に、その赤だけがはっきりと目に焼き付いた。
「モ…… モル!あいつを捕らえろ!」
モルに逃げた輩を追わせレハトの元に駆け寄り、横たわった体を抱き抱える。
「レハ…… ……っ」
……ああ。
視界が明滅した。地面が不可思議に波打つ。
これが現実だと理解することを脳が拒んでいる。
レハトの服は意匠が赤く染め上がり、髪の間から見える顔は酷く血色が悪く見えた。
「レハト」
血が止まらない。
どんなに圧迫しようと、裂けた腹からは止めどなく血が溢れてくる。
素人目で見ても傷は深そうだった。
「レハト!」
血が止まらない。
指の間から、レハトの生命が流れていく。
ぐったりとした体からは何の反応もなかった。
私はどうしたらいい。
「すぐに医務室に……」
「……いい、よ」
ほんの小さな掠れるような声だった。
レハトの声だ。焦点の合わない目でこちらを見ていた。
「意識はあるな。待っていろ、すぐに連れて行ってやる。大丈夫だ、治るからな」
「タナッセは、嘘が下手だね。自分の体くらい、わかるよ……」
「黙れ。治ると言ったら治る。だから、喋るな」
それでも諦めるわけには行かなかった。
レハトを抱き抱え医務室に向かう。
その間も血は溢れ、私の服も赤く染めていた。
「もっと…… いっぱい、お話したかったなぁ…………」
「話せば、いいだろう。これからも。ずっと」
「お出かけとか、も…… したかったな……」
外出ならまたすればいい。
どこだって、お前が望むなら連れて行ってやる。
だから。
「レハト」
私には何もできない。
「レハト……」
声をかけることしか出来ない。
「タナッセ…… ありがと」
「いくな」
いくんじゃない。
ああ、どこにだって連れて行ってやるのに。二人で。
行きたいところがあるのだろう。連れて行ってやるから。
たくさん見て回ればいい。そうだ、詩が見たいとお前は言っていただろう。
いくつでも作ってやるから。見せてやるから。だから。
「いくな……」
笑顔だった。
ゆっくり瞳が閉じられ、少しして、呼吸が止まった。
レハトの顔が霞んだ。音が何も聞こえなくなった。
まだ温かな体も、じきに冷たくなるのだろう。
何故レハトでなければいけなかったのか。
どうしてレハトでなければならなかったのか。
どうして、どうして、どうして。
捕えた者を詰問すると「依頼だった」と答えた。
ヨアマキスの発展を良しとしない者がいるのだ。その者に暗殺を依頼されたのだ、と。
くだらない。ただそれだけのことで。私は地位などどうでもよかったというのに。
そんなことの為に、そんなくだらないことのために、レハトは。ああ、レハトは。
初めて人のために慟哭した。
私と伴を共にさえしなければ、レハトはきっと殺されることはなかった。
私が、私といたから。私のせいで。
寵愛者が何だという。王子が何だという。ヨアマキスが何だと言うのだ。
私はただレハトがいればそれで良かった。地位や名声などどうでも良かった。
隣でレハトが笑っていればそれで良かった。笑顔を見ていられるだけで良かった。
それ以外に何も望まない。だのに何故それすらも叶わないのか。
もうレハトは笑ってはくれない。
無邪気な笑顔も拗ねた顔も、甘える仕草も泣き虫な顔も、もう見せてはくれない。
私の名前を呼ぶこともない。触れてくれることも、触れた時のあのくすぐったそうな笑顔ももう見られない。
胸が張り裂ける、など下らない恋愛譚の一節に過ぎないと思っていた。
頭の軽い貴族共の餌に過ぎないのだと。
ならば、この胸の痛みはなんなのだろう。
締め付けられるようなこの痛みは、一体なんなのだろう。
「レハト」
答えてはくれない。
「レハト……」
冷たい身体は答えない。
「れ……」
どれほど苦しかったのだろう。
どれほど悔しかっただろう。
それなのに、最期まであいつは笑っていた。
あまつさえ、殺される原因になった私に、ありがとうという言葉を遺して。
それを言うのは私の方だったというのに。
伝えることができなかった。二度と伝えることも叶わない。
レハトは神の国に迎えられ、私は死して山に還る。
もう二度と会うこともできない。
もっと愛してやればよかった、もっと想いを伝えていればよかった。
後悔と絶望の中、腕に収まった小さな亡骸はただ眠っているように見えた。
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2015.5.29
レハトと婚姻を結んでから、そういった類の噂が実しやかに流れるようになった。
無粋な噂話は背を付け尾を付け膨れ上がり耳に届く。
無論、地位や名声などに最早執着はなく、レハトと伴をしたのも彼女を愛していたからだ。
彼女との日々は私のそれまでの鬱々とした記憶を掻き消した。
誰かに愛され、誰かを愛すことがこれ程までに幸せなものだと今までの私は知らなかった。
愛おしいものに触れることができる。些細な喜びを共感することができる。
なんと素晴らしいことだろう。
そんな日々を噛みしめるように、今日もまたレハトと中庭を歩いていた。
するのは他愛のない会話だ。その瞬間がとても好きだった。
「あ、長椅子あるよ。タナッセタナッセ、一緒に座ろう」
不意に手を引かれる。
レハトはどうにもこういう突拍子のないところがあった。
仕方ないな、と苦笑する。澄み渡った昼下がりであるし、息抜きには良いだろう。
「おい、そんなに近づく必要はないだろう」
「くっつきたいの!」
誰が来るともしれないというのに、殆ど距離がないほどにくっついては私の顔を見上げてくる。
もう少し淑女らしい振る舞いをしてほしいと常々思うが、きっと贅沢な悩みだろう。
以前はそうした悩みすらもなかったのだから。
「ねね、そういえば新しい詩集できた?できたら見せてね」
「お前も物好きだな。私の詩でなくとも良いだろうに」
「もータナッセ分かってないなー。好きな人のだから読みたいんだよ」
こいつは…… 馬鹿というか素直というか…… 馬鹿というか。
恥ずかしげもなく言ってくる態度に、こちらが恥ずかしくなりそうだ。
「いいでしょ?」
「分かった分かった勝手にしろ。その代わり作業を手伝ってもらうからな」
あからさまにレハトの表情が歪んだ。何だその態度は。
お前には奉仕の心が足りないと諭せば、説教は聞きたくないなど生意気な口をきく。
頬をつねってやればいひゃいいひゃいと凡そ言葉になっていないことを言う。
不覚にも、子供らしい様子が愛おしく思えた。
私も傍から見たら相当惚気て見えるかもしれない。
「ほら、もういいだろう。そろそろ帰るぞ」
「ええー、まだタナッセといるー!」
「いちいちくっつくな!」
レハトを体から引き剥がしさっさと部屋に戻ろうとすると、辺りが不気味に静まり返っていることに気付く。
鳥の声も聞こえない。
何かがおかしい。
「おい、レハト……」
「え」
一瞬、何が起こったのか理解ができなかった。
突如としてレハトの眼前に降り立った黒い塊は、鈍色の刃を横に薙いだ。
眼前に鮮血が飛び散る。
レハトの体がぐらりと揺れ、地面に伏した。
白昼夢のように白くぼやけた世界に、その赤だけがはっきりと目に焼き付いた。
「モ…… モル!あいつを捕らえろ!」
モルに逃げた輩を追わせレハトの元に駆け寄り、横たわった体を抱き抱える。
「レハ…… ……っ」
……ああ。
視界が明滅した。地面が不可思議に波打つ。
これが現実だと理解することを脳が拒んでいる。
レハトの服は意匠が赤く染め上がり、髪の間から見える顔は酷く血色が悪く見えた。
「レハト」
血が止まらない。
どんなに圧迫しようと、裂けた腹からは止めどなく血が溢れてくる。
素人目で見ても傷は深そうだった。
「レハト!」
血が止まらない。
指の間から、レハトの生命が流れていく。
ぐったりとした体からは何の反応もなかった。
私はどうしたらいい。
「すぐに医務室に……」
「……いい、よ」
ほんの小さな掠れるような声だった。
レハトの声だ。焦点の合わない目でこちらを見ていた。
「意識はあるな。待っていろ、すぐに連れて行ってやる。大丈夫だ、治るからな」
「タナッセは、嘘が下手だね。自分の体くらい、わかるよ……」
「黙れ。治ると言ったら治る。だから、喋るな」
それでも諦めるわけには行かなかった。
レハトを抱き抱え医務室に向かう。
その間も血は溢れ、私の服も赤く染めていた。
「もっと…… いっぱい、お話したかったなぁ…………」
「話せば、いいだろう。これからも。ずっと」
「お出かけとか、も…… したかったな……」
外出ならまたすればいい。
どこだって、お前が望むなら連れて行ってやる。
だから。
「レハト」
私には何もできない。
「レハト……」
声をかけることしか出来ない。
「タナッセ…… ありがと」
「いくな」
いくんじゃない。
ああ、どこにだって連れて行ってやるのに。二人で。
行きたいところがあるのだろう。連れて行ってやるから。
たくさん見て回ればいい。そうだ、詩が見たいとお前は言っていただろう。
いくつでも作ってやるから。見せてやるから。だから。
「いくな……」
笑顔だった。
ゆっくり瞳が閉じられ、少しして、呼吸が止まった。
レハトの顔が霞んだ。音が何も聞こえなくなった。
まだ温かな体も、じきに冷たくなるのだろう。
何故レハトでなければいけなかったのか。
どうしてレハトでなければならなかったのか。
どうして、どうして、どうして。
捕えた者を詰問すると「依頼だった」と答えた。
ヨアマキスの発展を良しとしない者がいるのだ。その者に暗殺を依頼されたのだ、と。
くだらない。ただそれだけのことで。私は地位などどうでもよかったというのに。
そんなことの為に、そんなくだらないことのために、レハトは。ああ、レハトは。
初めて人のために慟哭した。
私と伴を共にさえしなければ、レハトはきっと殺されることはなかった。
私が、私といたから。私のせいで。
寵愛者が何だという。王子が何だという。ヨアマキスが何だと言うのだ。
私はただレハトがいればそれで良かった。地位や名声などどうでも良かった。
隣でレハトが笑っていればそれで良かった。笑顔を見ていられるだけで良かった。
それ以外に何も望まない。だのに何故それすらも叶わないのか。
もうレハトは笑ってはくれない。
無邪気な笑顔も拗ねた顔も、甘える仕草も泣き虫な顔も、もう見せてはくれない。
私の名前を呼ぶこともない。触れてくれることも、触れた時のあのくすぐったそうな笑顔ももう見られない。
胸が張り裂ける、など下らない恋愛譚の一節に過ぎないと思っていた。
頭の軽い貴族共の餌に過ぎないのだと。
ならば、この胸の痛みはなんなのだろう。
締め付けられるようなこの痛みは、一体なんなのだろう。
「レハト」
答えてはくれない。
「レハト……」
冷たい身体は答えない。
「れ……」
どれほど苦しかったのだろう。
どれほど悔しかっただろう。
それなのに、最期まであいつは笑っていた。
あまつさえ、殺される原因になった私に、ありがとうという言葉を遺して。
それを言うのは私の方だったというのに。
伝えることができなかった。二度と伝えることも叶わない。
レハトは神の国に迎えられ、私は死して山に還る。
もう二度と会うこともできない。
もっと愛してやればよかった、もっと想いを伝えていればよかった。
後悔と絶望の中、腕に収まった小さな亡骸はただ眠っているように見えた。
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2015.5.29