その姿は慈愛に満ちて。
- 結婚してしばらく経ったタナッセとレハトのお話。
本日は視察の日である。
領主になったこともあり、遠方への視察もそう少なくない。
普段は私とモル、そして厩番の侍従が付き添うくらいだが、今日は違った。
「ねぇねぇ、今日はどこに行くんだっけ」
妻…… レハトが隣にいる。
いつもは邸に置いてくるのだが、昨今は視察が長引き数日邸を空けることも多く
我が妻はその事に大層ご立腹の様子だった。
今回も遠方なので五日程留守にするといえば、私も連れて行けとせがまれてしまった。
視察には私一人で事が足りるし、レハトに何かあっては困ると断ったのだが
そう言えばやれ妻に対する態度がなっていないだの、お土産のひとつも買ってこないだの
帰ってきて迎えたら愚痴ばかりでつまらないだのと滔々と不平不満を漏らされてしまう。
事実なのでうまく言い返すこともできず、お仕事は侍従に任せていけばいいのよと、あれよあれよと言う間に事が進んでいた。
そうしてレハトは隣にいる。
仕事を押し付けられた侍従には憐憫すら覚えた。帰館したら褒美を出してやらねば。
「ああ、今日はディットンの視察と古神殿への挨拶だな。と言ってももう何度か顔は合わせている、特段難しい案件もないだろう」
「そっか。でも初めてだから緊張しちゃうなぁ」
ならば邸で待っていれば良いものを、と浮かんだ言葉を掻き消す。
そんなことを言えば即座にタナッセは乙女心が分かってないとか分かりたくもないことを喚くに決まっている。
「ディットンまでもうすぐだが、どうだ。疲れていないか」
治めている領地とディットンは遠くはないとはいえ、気軽に寄れる位置にもない。どうしても往復すれば日が立ってしまう。
私こそもう慣れたが、レハトが遠方に赴くのはそれこそ領地に越してきた時以来である。
体を壊していないと良いのだが。
「大丈夫!確かにちょっとは疲れたけど、見慣れないものいっぱいで楽しいから!」
兎鹿車の窓からしきりに外を見てはしゃぐレハトは、本当に楽しそうだ。
普段邸に閉じこもっているので、存外外が珍しいのかもしれない。
たまには外に連れ出してやるのも悪くはないかもしれないな、と考えた。
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ディットンの様子は以前来た時と変わらず落ち着いた雰囲気だった。
王城のような威圧感のある石壁はなりを潜め、土壁のような風合いの家が多く立っている。
古神殿は威厳があるものの、色合いからか来る者を拒むような雰囲気は見当たらない。実際がどうかは……言うまでもないか。
人々にすら柔らかな印象を受けるこの街を、私はとても気に入っている。行き交う喧騒すらも街の一部として溶け込んでいた。
「わあ、お城と全然違うね。領地にもこんな感じのお家あればいいのに」
「ああ、それなら計画を立てている。ディットンからはそう遠くないからな、風土もあっているだろう」
まだ時間はある、視察の下見も兼ねて街を案内しようとした時だった。
「あ、タナッセ危ない!」
「おっと」
何かが足にぶつかった。モルが腕を支えてくれたため倒れることはなかったが、ぶつかった辺りが少し痛む。
「あ、ご、ごめんなさい……!」
どうやらぶつかったのは年端もいかない子供のようだ。子供でも私達の身なりの良さは分かるのだろう、顔を真っ青にして震えている。
勿論ぶつかったこと自体は褒められたことではないものの、謝罪もしている。
目くじらを立てて叱りつけるような物でもないだろう。
「僕、大丈夫?怪我はない?」
「ごめんなさい……」
「気にするな。こちらには何もない。だが、前は見なくてはならんぞ。それで、怪我はないのか」
レハトが子供を見ると、どうやら顔の辺りに傷が出来ているらしい。
大丈夫よ、と微笑み声をかけながら手当する彼女を見て、ある一つの感情が浮かんだ。
慌ててかき消そうとしたものの、その感情は頭から離れることはなかった。
子供は手当が終わるとこちらに丁寧に礼を述べ、どこかに共に去って行った。
今度こそ予定の視察を開始する。
もう何度も行っていることであるし、特段躓くこともなく予定は進行した。
視察では自然と建物を多く見ることになる。その中でもレハトは露天に殊更興味を示していた。
今は買い物に来たのではないぞ、と言えば頬を膨らませていたが、見て回るのも楽しいようだ。
古神殿での挨拶回りでは領主の妻としての役目を果たしていたように思う。
妻として振る舞うレハトを見ていると、先程の光景が夢だったかのように思えた。
子供に接している彼女は、とても……美しかった。外見的な意味ではない。いや、外見も相応に美しいが、何というか。
母性……とでも言うのだろうか……を感じたのだ。もし私達の間に子供ができたら、あのような感じなのかもしれない。私は父としてうまく振る舞えるだろうか。
と、考えたあたりで首を振る。何を考えているのだ。そんな予定は今のところはない。
今のところは。集中しなくては。
神官に怪訝な顔をされながらも、どうにか今日の予定を終わらすことができた。
やたらと疲れた気がする。あとはディットンに用意してある別荘に行って休むだけだと肩の荷が下りた。
「タナッセお疲れ様。すごいね、いつもあんなことしてるんだ」
「ああ、普段は視察のみのことが多いがな。お前こそ中々堂に入る振る舞いだったではないか」
「タナッセのお嫁さんだもん、失敗はできないよ」
屋敷に入るや否や、レハトがねぎらいの言葉をかけてくる。良くできた嫁だとつくづく思い知らされた。
一方私はと言えば、視察の間も顔合わせの時も、レハトが子供に向けていた顔や仕草が忘れられず「上の空だったよ」と言われる始末である。
この感情は何と言い表せばいいのだろう。
あの時確かに、レハトに感じ入るものがあった。もっと子供と触れ合うレハトを見ていたいと。
それに、子供から感謝の言葉を言われるのも悪い気分ではなかった。あれが己の息子ならさぞ愛おしく感じることだろう。
…………分かっている。この気持ちの正体は。私は、子供が欲しいと思ったのだ。
「……ぶつかってきた子供は平気だったろうか」
「うん?怪我も小さかったし、平気じゃないかな」
「そうか、それなら良いのだが」
「あの子供が気になるの?」
痛いところを突かれる。
彼女は中々に勘が鋭い。油断していると足元を掬われる。
「いや、そういう訳では…… ないんだが……」
「ふぅん、そう?タナッセがこうやって気にしてるのって珍しいから、何かあるのかなって」
「……その、だな。……子供と触れ合っているお前が何というか、やけにこう、しっくりときた」
思わず言葉が喉にひっかかってしまった。
あまりに語彙がなさ過ぎる表現に、我ながら恥じ入る。
もう少し良い言い回しがあったのではないか。思いつかないが。
「……もしかして、子供ほしいの?」
そんなに直球で言うんじゃない。これではまるで、私が夜の誘いでもしたようではないか。
違う。断じて違う。ただ思うところがあっただけで。
「いや、急かしている訳ではなくて。ただ、お前が母親になったらああなのだろうなと…… ああ気にするな私の独り言で……」
「私もタナッセとの子供ほしいな」
こちらをからかうような笑顔でそんなことを言う。本当に、本当に食えぬ嫁である。
「そ、そのうち、に……な」
顔を見ることすらままならず、そう答えるのが精一杯だった。
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2016.4.13
領主になったこともあり、遠方への視察もそう少なくない。
普段は私とモル、そして厩番の侍従が付き添うくらいだが、今日は違った。
「ねぇねぇ、今日はどこに行くんだっけ」
妻…… レハトが隣にいる。
いつもは邸に置いてくるのだが、昨今は視察が長引き数日邸を空けることも多く
我が妻はその事に大層ご立腹の様子だった。
今回も遠方なので五日程留守にするといえば、私も連れて行けとせがまれてしまった。
視察には私一人で事が足りるし、レハトに何かあっては困ると断ったのだが
そう言えばやれ妻に対する態度がなっていないだの、お土産のひとつも買ってこないだの
帰ってきて迎えたら愚痴ばかりでつまらないだのと滔々と不平不満を漏らされてしまう。
事実なのでうまく言い返すこともできず、お仕事は侍従に任せていけばいいのよと、あれよあれよと言う間に事が進んでいた。
そうしてレハトは隣にいる。
仕事を押し付けられた侍従には憐憫すら覚えた。帰館したら褒美を出してやらねば。
「ああ、今日はディットンの視察と古神殿への挨拶だな。と言ってももう何度か顔は合わせている、特段難しい案件もないだろう」
「そっか。でも初めてだから緊張しちゃうなぁ」
ならば邸で待っていれば良いものを、と浮かんだ言葉を掻き消す。
そんなことを言えば即座にタナッセは乙女心が分かってないとか分かりたくもないことを喚くに決まっている。
「ディットンまでもうすぐだが、どうだ。疲れていないか」
治めている領地とディットンは遠くはないとはいえ、気軽に寄れる位置にもない。どうしても往復すれば日が立ってしまう。
私こそもう慣れたが、レハトが遠方に赴くのはそれこそ領地に越してきた時以来である。
体を壊していないと良いのだが。
「大丈夫!確かにちょっとは疲れたけど、見慣れないものいっぱいで楽しいから!」
兎鹿車の窓からしきりに外を見てはしゃぐレハトは、本当に楽しそうだ。
普段邸に閉じこもっているので、存外外が珍しいのかもしれない。
たまには外に連れ出してやるのも悪くはないかもしれないな、と考えた。
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ディットンの様子は以前来た時と変わらず落ち着いた雰囲気だった。
王城のような威圧感のある石壁はなりを潜め、土壁のような風合いの家が多く立っている。
古神殿は威厳があるものの、色合いからか来る者を拒むような雰囲気は見当たらない。実際がどうかは……言うまでもないか。
人々にすら柔らかな印象を受けるこの街を、私はとても気に入っている。行き交う喧騒すらも街の一部として溶け込んでいた。
「わあ、お城と全然違うね。領地にもこんな感じのお家あればいいのに」
「ああ、それなら計画を立てている。ディットンからはそう遠くないからな、風土もあっているだろう」
まだ時間はある、視察の下見も兼ねて街を案内しようとした時だった。
「あ、タナッセ危ない!」
「おっと」
何かが足にぶつかった。モルが腕を支えてくれたため倒れることはなかったが、ぶつかった辺りが少し痛む。
「あ、ご、ごめんなさい……!」
どうやらぶつかったのは年端もいかない子供のようだ。子供でも私達の身なりの良さは分かるのだろう、顔を真っ青にして震えている。
勿論ぶつかったこと自体は褒められたことではないものの、謝罪もしている。
目くじらを立てて叱りつけるような物でもないだろう。
「僕、大丈夫?怪我はない?」
「ごめんなさい……」
「気にするな。こちらには何もない。だが、前は見なくてはならんぞ。それで、怪我はないのか」
レハトが子供を見ると、どうやら顔の辺りに傷が出来ているらしい。
大丈夫よ、と微笑み声をかけながら手当する彼女を見て、ある一つの感情が浮かんだ。
慌ててかき消そうとしたものの、その感情は頭から離れることはなかった。
子供は手当が終わるとこちらに丁寧に礼を述べ、どこかに共に去って行った。
今度こそ予定の視察を開始する。
もう何度も行っていることであるし、特段躓くこともなく予定は進行した。
視察では自然と建物を多く見ることになる。その中でもレハトは露天に殊更興味を示していた。
今は買い物に来たのではないぞ、と言えば頬を膨らませていたが、見て回るのも楽しいようだ。
古神殿での挨拶回りでは領主の妻としての役目を果たしていたように思う。
妻として振る舞うレハトを見ていると、先程の光景が夢だったかのように思えた。
子供に接している彼女は、とても……美しかった。外見的な意味ではない。いや、外見も相応に美しいが、何というか。
母性……とでも言うのだろうか……を感じたのだ。もし私達の間に子供ができたら、あのような感じなのかもしれない。私は父としてうまく振る舞えるだろうか。
と、考えたあたりで首を振る。何を考えているのだ。そんな予定は今のところはない。
今のところは。集中しなくては。
神官に怪訝な顔をされながらも、どうにか今日の予定を終わらすことができた。
やたらと疲れた気がする。あとはディットンに用意してある別荘に行って休むだけだと肩の荷が下りた。
「タナッセお疲れ様。すごいね、いつもあんなことしてるんだ」
「ああ、普段は視察のみのことが多いがな。お前こそ中々堂に入る振る舞いだったではないか」
「タナッセのお嫁さんだもん、失敗はできないよ」
屋敷に入るや否や、レハトがねぎらいの言葉をかけてくる。良くできた嫁だとつくづく思い知らされた。
一方私はと言えば、視察の間も顔合わせの時も、レハトが子供に向けていた顔や仕草が忘れられず「上の空だったよ」と言われる始末である。
この感情は何と言い表せばいいのだろう。
あの時確かに、レハトに感じ入るものがあった。もっと子供と触れ合うレハトを見ていたいと。
それに、子供から感謝の言葉を言われるのも悪い気分ではなかった。あれが己の息子ならさぞ愛おしく感じることだろう。
…………分かっている。この気持ちの正体は。私は、子供が欲しいと思ったのだ。
「……ぶつかってきた子供は平気だったろうか」
「うん?怪我も小さかったし、平気じゃないかな」
「そうか、それなら良いのだが」
「あの子供が気になるの?」
痛いところを突かれる。
彼女は中々に勘が鋭い。油断していると足元を掬われる。
「いや、そういう訳では…… ないんだが……」
「ふぅん、そう?タナッセがこうやって気にしてるのって珍しいから、何かあるのかなって」
「……その、だな。……子供と触れ合っているお前が何というか、やけにこう、しっくりときた」
思わず言葉が喉にひっかかってしまった。
あまりに語彙がなさ過ぎる表現に、我ながら恥じ入る。
もう少し良い言い回しがあったのではないか。思いつかないが。
「……もしかして、子供ほしいの?」
そんなに直球で言うんじゃない。これではまるで、私が夜の誘いでもしたようではないか。
違う。断じて違う。ただ思うところがあっただけで。
「いや、急かしている訳ではなくて。ただ、お前が母親になったらああなのだろうなと…… ああ気にするな私の独り言で……」
「私もタナッセとの子供ほしいな」
こちらをからかうような笑顔でそんなことを言う。本当に、本当に食えぬ嫁である。
「そ、そのうち、に……な」
顔を見ることすらままならず、そう答えるのが精一杯だった。
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2016.4.13