虹の先に何があるか。
- あさきの「虹の先に何があるか」より。
レハトの成人をもって、私達は結婚した。
幸せな日々が続いていた。
印のない王子と蔑まれ、怯懦な逃亡者と比べられ、いつまでも苛まれていた日々からは想像もできないほど幸せだった。
「それでは視察に行ってくる。いいか、お前は体が弱いのだから外には」
「分かってるよ、タナッセこそ気をつけてね」
「ああ、すぐに帰る」
レハトは私がした愚かな行為のせいで、体が通常よりも衰弱していた。
それでも私のために、といつでも笑顔でいた彼女は殊勝で愛おしかった。
ただ、彼女が幸せであればいいと願っていた。
私にできることならなんでもしよう。
この身が朽ち果てようとも。
領主になった私は時折領地に視察に行くことが増えた。
その時ばかりはレハトを連れていくわけにはいかない。
兎鹿車で幾日もかかる距離を彼女に負担させることはできなかった。
一人大地の轍に揺られながら耽ける。
彼女は幸せだろうか、と。
『な、なんだお前たちは!』
「何事だ」
突然兎鹿車が揺れたかと思うと、乱暴に停車した。従者が何かに怒鳴っているが、声が震えている。
覗き窓から前を見ると、なるほど賊が兎鹿を切りつけたようだった。
「よお王子様。乗ってるんだろ。降りてこいよ」
私はもう王子ではない。そのような資格もない。だがこれは予想できたことだ。
レハト、つまり寵愛者と結婚したことでヨアマキスの名誉は回復した。
その事を良しとしない者に命を狙われる事も予想の範囲内だった。
側に控えているモルが剣を取り出す。
モルとて伊達に私の護衛をしているわけではない。
これくらい軽く蹴散らせるだろう。
「私が降りる必要はない。貴様らこそ怪我をせぬうちにここから去ね」
「生意気だな、やれ!」
不躾な言葉とともに賊の短剣が向かってくる。
だがそれは私には届かない。
モルの剣が次々と賊を討ち払っていく。
部が悪いと気付いたのか、賊の頭目は後ずさるが、その顔には下卑た笑みが張り付いていた。
「いいのか、俺たちに逆らって」
「どういう事だ。負け犬の遠吠えなら他所でやれ」
「確かあんたの嫁さん、体が弱いんだよなぁ?」
レハト。
その言葉が出た瞬間嫌な映像が脳裏を過る。
「貴様ら、レハトに何かしたのか!」
「さあどうだろうなぁ?それは王子様次第って事だ」
眉根を顰める。
カマをかけられているのだろうか。
だが私は。
「ちっ」
渋々と兎鹿車から降りる。
従者が怯えた顔でこちらを見てくるが、先に戻っていろ、とだけ伝え場には私とモルだけが残された。
「要求はなんだ。金か?それとも領地か」
「金、金ね。そんなものいらねぇよ」
吐き捨てるような言葉に、私は自分の運命を悟った。
「気にいらねぇんだよ。落ちこぼれの王子様が寵愛者様とくっついて領主をしてるってことがよお!」
モルが前に出るが、それを押しとどめる。
「ようは私の命が狙いか。は、落ちたものだな。どこの蛮族かと思えば」
「命乞いしたって無駄だぜ。抵抗すればお前の大事な嫁さんが代わりになることになる」
動けない。
金も、領地も、交渉すればどうにでもなる。
だが、レハトの命だけは。何にも代えられない。
彼女は一人しかいないのだから。
「……モル、下がれ。お前も先に帰れ。今なら兎鹿車にも追いつく」
モルが困惑した目線を合わせてくるが、無視して払いのけた。
ああ、おそらく私はここで死ぬのだろう。
まだレハトにしてやれていない事もある。
まだ、彼女とともに居たかった思いもある。
彼女は悲しむだろうか。
ああ、もっと愛していればよかった。
それでも、私はあの時から決めたのだ。
もう誰にも、彼女を傷つけさせないのだと。
------------------------------------------------------------------------------
「タナッセ、遅いな」
視察の予定は三日だったはずだ。
もうとうに五日は過ぎている。
私の胸中に不安がよぎる。
彼は私が嫌になったのではないか。
私といることが、彼の枷になっているのではないか。
だが、彼は言った。
「帰る」と。
私のもとに帰ってくるのだと。
そんな希望は、主人のいない兎鹿車とモルが帰還したことで打ち砕かれた。
「そんな、そんな!モル、嘘でしょ、モル!なんで、なんで!!」
少しの返り血を浴びたモルの胸を仕切りに殴る。モルは何も言わない。
そのことが全てを物語っていた。
彼は帰ってこなかった。
帰ってきたのは、従者とモルだけだ。
モルは私が胸を叩くたびに、苦虫を噛み潰したような顔をした。
モルに当たってもどうしようもないのに。
「なんで、帰ってくるって言ったのに!すぐに帰るって。なんで、なんで……」
涙で目の前が霞む。
従者によればタナッセを最後に見たのは、兎鹿車から降り賊の前に立ったところだという。
どこで降ろしたのか聞いても、自分も動転していて覚えていないと中身のない言葉が返ってくるばかりだった。
一週が経った。帰ってこない。
窓の外を見つめても、彼の姿は見えない。
帰ってくると約束したのに。
私も、外に出ないと約束したのに。
二週が経った。外に出た。
モルが出ないようにと押し留めたが、役立たず!と酷い言葉を放って私は外に駆け出した。
モルのせいではないのに。私はなんと酷い女なのだろう。
彼がどこでいなくなったのかはわからない。
それでもどこに向かおうとしていたのかは知っている。
その道を辿っていけばきっと会えるはずだ。
歩いて、歩いて、走って、走って。
転んで。また歩いて。
喉が渇いた。お腹が空いた。擦りむいた膝が痛い。
それでも私は彼を探していた。
薄れていく轍を頼りにただ歩いた。
薄れそうになる意識を顔を叩いて留めた。
走って、走って、走って。
転んで。また歩いて。
何日経ったのだろう。
夜通し歩いた足はガクガクと震え、時折地面に膝をついた。
それでも歩みは止めない。彼がまだ見つかっていないのだから。
唐突に轍はそこで止まっていた。
薄れているのではなく、深く抉れるように痕が残っていた。
血痕が残っていた。もう黒く掠れているが、確かに血の跡だ。
ああ。
でも。
彼はまだいない。
辺りを探した。
探して、探して、泣いた。
彼はそこにいた。
頽れるように、眠っていた。
木の根元、寄りかかるように胸を一突きされていた。
「タナッセ」
声をかけてもいつもの優しい声は帰ってこない。
「タナッセ」
服がボロボロになっていた。
サラサラと流れるような薄縹色の髪は崩れてぐちゃぐちゃになっていた。
頬はこけて顔色はくすんでいた。
心なしか、最期に会った時より小さく見えた。
抱き上げるとすんなりと持ち上がった。
どうして。こんなに軽くなってしまったのだろう。
私より大きくて優しい背中は。
どこにいってしまったのだろう。
「たなっせ」
顔は安らかだった。苦悶に満ちた表情でなくて、それだけが救いだった。
「帰るっていったのに、タナッセの、嘘つき」
嘘つき、嘘つき、嘘つき。
ポタリと、雫が頰に当たった。
気付けばあたりは暗く曇天になっている。
針で刺すような冷たい雨が次第に体を叩く。
すっかり冷たくなってしまっている彼の体を温めようと、もっと抱きしめてみた。
抱き返してくれる腕はない。
もう、あの優しい抱擁はない。
優しい笑顔もない。優しい声もない。
何もない。
軽くなってしまった彼の体を抱きしめながら、よろよろと歩いた。
行くあてもなく。帰るつもりもなく。
そのうち、崖になっているところについた。
底は暗く淀んでいて見えない。
まるで今の私の心のようだった。
でも今は彼がいる。
何も言ってはくれないけど。
もう。喋る事も。
抱きしめてくれることもないけれど。
彼を見つけることが出来た。
それだけで十分だった。
愛していると。
あなたに、あなただけに言えた。
今も幸せです、と。
彼の体を抱きしめながら崖に飛び込む。
風を切る音が耳に届く。冷たい風が体に当たる。
すぐに着く距離だから、と。
彼の亡骸を抱えながら墜ちていく。
体が上を向いて、空が見えた。
いつのまにか雨は上がって、虹が架かっていた。
虹の先には何があるのかな。
ねえ、タナッセ。
二人なら、分かるかな。
いつか、分かるかな。
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2019.3.7
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2019.3.7
幸せな日々が続いていた。
印のない王子と蔑まれ、怯懦な逃亡者と比べられ、いつまでも苛まれていた日々からは想像もできないほど幸せだった。
「それでは視察に行ってくる。いいか、お前は体が弱いのだから外には」
「分かってるよ、タナッセこそ気をつけてね」
「ああ、すぐに帰る」
レハトは私がした愚かな行為のせいで、体が通常よりも衰弱していた。
それでも私のために、といつでも笑顔でいた彼女は殊勝で愛おしかった。
ただ、彼女が幸せであればいいと願っていた。
私にできることならなんでもしよう。
この身が朽ち果てようとも。
領主になった私は時折領地に視察に行くことが増えた。
その時ばかりはレハトを連れていくわけにはいかない。
兎鹿車で幾日もかかる距離を彼女に負担させることはできなかった。
一人大地の轍に揺られながら耽ける。
彼女は幸せだろうか、と。
『な、なんだお前たちは!』
「何事だ」
突然兎鹿車が揺れたかと思うと、乱暴に停車した。従者が何かに怒鳴っているが、声が震えている。
覗き窓から前を見ると、なるほど賊が兎鹿を切りつけたようだった。
「よお王子様。乗ってるんだろ。降りてこいよ」
私はもう王子ではない。そのような資格もない。だがこれは予想できたことだ。
レハト、つまり寵愛者と結婚したことでヨアマキスの名誉は回復した。
その事を良しとしない者に命を狙われる事も予想の範囲内だった。
側に控えているモルが剣を取り出す。
モルとて伊達に私の護衛をしているわけではない。
これくらい軽く蹴散らせるだろう。
「私が降りる必要はない。貴様らこそ怪我をせぬうちにここから去ね」
「生意気だな、やれ!」
不躾な言葉とともに賊の短剣が向かってくる。
だがそれは私には届かない。
モルの剣が次々と賊を討ち払っていく。
部が悪いと気付いたのか、賊の頭目は後ずさるが、その顔には下卑た笑みが張り付いていた。
「いいのか、俺たちに逆らって」
「どういう事だ。負け犬の遠吠えなら他所でやれ」
「確かあんたの嫁さん、体が弱いんだよなぁ?」
レハト。
その言葉が出た瞬間嫌な映像が脳裏を過る。
「貴様ら、レハトに何かしたのか!」
「さあどうだろうなぁ?それは王子様次第って事だ」
眉根を顰める。
カマをかけられているのだろうか。
だが私は。
「ちっ」
渋々と兎鹿車から降りる。
従者が怯えた顔でこちらを見てくるが、先に戻っていろ、とだけ伝え場には私とモルだけが残された。
「要求はなんだ。金か?それとも領地か」
「金、金ね。そんなものいらねぇよ」
吐き捨てるような言葉に、私は自分の運命を悟った。
「気にいらねぇんだよ。落ちこぼれの王子様が寵愛者様とくっついて領主をしてるってことがよお!」
モルが前に出るが、それを押しとどめる。
「ようは私の命が狙いか。は、落ちたものだな。どこの蛮族かと思えば」
「命乞いしたって無駄だぜ。抵抗すればお前の大事な嫁さんが代わりになることになる」
動けない。
金も、領地も、交渉すればどうにでもなる。
だが、レハトの命だけは。何にも代えられない。
彼女は一人しかいないのだから。
「……モル、下がれ。お前も先に帰れ。今なら兎鹿車にも追いつく」
モルが困惑した目線を合わせてくるが、無視して払いのけた。
ああ、おそらく私はここで死ぬのだろう。
まだレハトにしてやれていない事もある。
まだ、彼女とともに居たかった思いもある。
彼女は悲しむだろうか。
ああ、もっと愛していればよかった。
それでも、私はあの時から決めたのだ。
もう誰にも、彼女を傷つけさせないのだと。
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「タナッセ、遅いな」
視察の予定は三日だったはずだ。
もうとうに五日は過ぎている。
私の胸中に不安がよぎる。
彼は私が嫌になったのではないか。
私といることが、彼の枷になっているのではないか。
だが、彼は言った。
「帰る」と。
私のもとに帰ってくるのだと。
そんな希望は、主人のいない兎鹿車とモルが帰還したことで打ち砕かれた。
「そんな、そんな!モル、嘘でしょ、モル!なんで、なんで!!」
少しの返り血を浴びたモルの胸を仕切りに殴る。モルは何も言わない。
そのことが全てを物語っていた。
彼は帰ってこなかった。
帰ってきたのは、従者とモルだけだ。
モルは私が胸を叩くたびに、苦虫を噛み潰したような顔をした。
モルに当たってもどうしようもないのに。
「なんで、帰ってくるって言ったのに!すぐに帰るって。なんで、なんで……」
涙で目の前が霞む。
従者によればタナッセを最後に見たのは、兎鹿車から降り賊の前に立ったところだという。
どこで降ろしたのか聞いても、自分も動転していて覚えていないと中身のない言葉が返ってくるばかりだった。
一週が経った。帰ってこない。
窓の外を見つめても、彼の姿は見えない。
帰ってくると約束したのに。
私も、外に出ないと約束したのに。
二週が経った。外に出た。
モルが出ないようにと押し留めたが、役立たず!と酷い言葉を放って私は外に駆け出した。
モルのせいではないのに。私はなんと酷い女なのだろう。
彼がどこでいなくなったのかはわからない。
それでもどこに向かおうとしていたのかは知っている。
その道を辿っていけばきっと会えるはずだ。
歩いて、歩いて、走って、走って。
転んで。また歩いて。
喉が渇いた。お腹が空いた。擦りむいた膝が痛い。
それでも私は彼を探していた。
薄れていく轍を頼りにただ歩いた。
薄れそうになる意識を顔を叩いて留めた。
走って、走って、走って。
転んで。また歩いて。
何日経ったのだろう。
夜通し歩いた足はガクガクと震え、時折地面に膝をついた。
それでも歩みは止めない。彼がまだ見つかっていないのだから。
唐突に轍はそこで止まっていた。
薄れているのではなく、深く抉れるように痕が残っていた。
血痕が残っていた。もう黒く掠れているが、確かに血の跡だ。
ああ。
でも。
彼はまだいない。
辺りを探した。
探して、探して、泣いた。
彼はそこにいた。
頽れるように、眠っていた。
木の根元、寄りかかるように胸を一突きされていた。
「タナッセ」
声をかけてもいつもの優しい声は帰ってこない。
「タナッセ」
服がボロボロになっていた。
サラサラと流れるような薄縹色の髪は崩れてぐちゃぐちゃになっていた。
頬はこけて顔色はくすんでいた。
心なしか、最期に会った時より小さく見えた。
抱き上げるとすんなりと持ち上がった。
どうして。こんなに軽くなってしまったのだろう。
私より大きくて優しい背中は。
どこにいってしまったのだろう。
「たなっせ」
顔は安らかだった。苦悶に満ちた表情でなくて、それだけが救いだった。
「帰るっていったのに、タナッセの、嘘つき」
嘘つき、嘘つき、嘘つき。
ポタリと、雫が頰に当たった。
気付けばあたりは暗く曇天になっている。
針で刺すような冷たい雨が次第に体を叩く。
すっかり冷たくなってしまっている彼の体を温めようと、もっと抱きしめてみた。
抱き返してくれる腕はない。
もう、あの優しい抱擁はない。
優しい笑顔もない。優しい声もない。
何もない。
軽くなってしまった彼の体を抱きしめながら、よろよろと歩いた。
行くあてもなく。帰るつもりもなく。
そのうち、崖になっているところについた。
底は暗く淀んでいて見えない。
まるで今の私の心のようだった。
でも今は彼がいる。
何も言ってはくれないけど。
もう。喋る事も。
抱きしめてくれることもないけれど。
彼を見つけることが出来た。
それだけで十分だった。
愛していると。
あなたに、あなただけに言えた。
今も幸せです、と。
彼の体を抱きしめながら崖に飛び込む。
風を切る音が耳に届く。冷たい風が体に当たる。
すぐに着く距離だから、と。
彼の亡骸を抱えながら墜ちていく。
体が上を向いて、空が見えた。
いつのまにか雨は上がって、虹が架かっていた。
虹の先には何があるのかな。
ねえ、タナッセ。
二人なら、分かるかな。
いつか、分かるかな。
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2019.3.7
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