追憶は幻想を孕み。
- タナッセのレハトのすれちがい。レハトは結婚済み、タナッセは独身です。
風の強い日だった。
木々から松籟が耳に届き、吹き抜ける風で肩布が飛ばされそうになる。
そんな中、私はある人物を待っていた。
先だって話したことを思い出し、目を閉じる。
――自室にて詩の上梓をしている際に、奴が訪ねてきた。
いつもなら無遠慮に扉を開けていくであろうが、その日は違っていた。
おずおずといった調子で中に入り、私が示した椅子につく。
常日頃は饒舌な奴が、珍しく舌を鈍らせて私に告げた。
話があるのだと。次の週の休み、中庭に来て欲しいのだ、と。
その時から多少覚悟はしていた。最近あいつが私に向ける視線。
それは何か熱のようなものだったと、今にしても思う。
しかし、それが起きては――
そう回顧している間に、奴が――レハトが来ていたらしい。
「……来ていたのなら声を掛けろ。呼び出したのはお前だろうが」
ごめん、そうぼそりと呟かれる。調子が狂う、やりづらい。
呼び出した理由はなんなのか、人を待たせているのだから早くしろ。
居心地の悪さからそう足早に言うと、レハトは口ごもりつつ告げた。
――私、タナッセが好きだよ。
-------------------------------------------------------------------------
それは起きてはならなかった。
決して、起きてはならなかったのだ。
「私が好き、だと?」
レハトは言った。
私の事が好きなのだと。友達としてではなく、男性として好きなのだと。
私も、こいつのことは……レハトの事は嫌いではない。
はっきりと言ってしまえば、好きなのだろう。
だが認める訳にはいかなかった。
私の城での扱いはよくない。レハトもよく知っているはずだ。
きっと、それも承知で告白してくれたのだろう。
嬉しかった。素直に、レハトの好意が嬉しかった。
それでも。
「お前の気持ちは分かった。だが、それだけだ。分かるだろう?」
私と伴を共にすれば、その揶揄は私だけに留まらずレハトにも向く。
やがて城から城下へと露見していくだろう。
それだけはどうしても避けたかった。
「これで話は終わりだ。お前が納得しようとも、しなくともな」
こちらを見つめるレハトの瞳が大きく揺らいだように見えた。
きっと、風のせいだろう。
端正な唇が何事かを呟いたが、その言の葉は風に掻き消え耳に届くことはなかった。
-------------------------------------------------------------------------
それから、幾ばくかの月日が流れた。
レハトは傷心した様子を億尾にも出さず、変わらず私に話しかけてくる。
やれこの詩はどういう意図なのか、やれここの歴史はどうなのか。
図書室で文官にでも聴けば分かるようなことを、奴は私に聞いてきた。
レハトなりの甘え方なのだろう。
馬鹿な奴だ、と思いつつもつい答えてしまう。
しかし、私は徐々にレハトを避けるようになった。
私と、奴は違う。
レハトは寵愛者であり、王の証たる徴をその額に持つ。
私はあと数月でうらぶれる。もはや肩書きだけの王子ですらない。
そんな私と共にいるなど、あいつにとって良い影響な訳がなかった。
レハトは私にとって唯一無二の知己だ。
だからこそ、私なんぞのせいで奴の名声に傷など付けたくなかった。
尤も、聡いレハトの事だ。私の意図も汲み取るだろう。
人の想いは時の流れと共に移ろいでいく。
そのうち、レハトからの来訪はなくなり次第に離れ方となっていった。
文机につきながら、ぼうとそんなことに思いを巡らせる。
いつしか詩嚢を肥やすことも忘れ、詩を綴る手も止まっていたようだ。
噂によれば、レハトはとある貴族と好い仲になっているらしい。
喜ばしい反面、どこか寂しさを覚えた。
「これで、よかったんだろうさ」
以前は決して湧かなかったであろう感情を抱き、思わず一人ごちる。
露台から外を見やれば、月が静かに湖面を照らしていた。
-------------------------------------------------------------------------
六代目国王……ヴァイルへの譲位も落ち着いてきた頃。
あることが気にかかり、私は城に留まっていた。
情けないことに、未だレハトの成人後の姿を見れていないのだ。
知己への挨拶の一つもすべきだと思い、その姿を探し廊下を歩いていた。
道中、廊下の隅で話す侍従達の声が耳に届く。
――聞いた?レハト様、領主様に求婚されたんだって――
――知ってる知ってる。どうやら求婚、お受けになったそうよ――
ああ。受けた、のか。
特段珍しいことではない。
レハトには好い仲の貴族がいたという噂であったし、冠は頂けなくとも寵愛者だ。
縁談など山のように届くだろう。
「おい、そこの侍従達」
いきなり声を掛けられたせいか、侍従達は大げさなほど背をびくりとさせこちらを向く。
「お、王息殿下様。どう致しましたか?その、私たちは別に……」
「私はもう王息殿下ではない。それはいいのだ、レハトを知らないか?」
サボっていたことを咎められると思っていたのだろう。
間の抜けたような面をし、侍従達は顔を見合わせた。
「レハト様、ですか?いつもなら広間の方でよくお顔をお見かけしますが」
「そうか、感謝する」
さぞ見目麗しくなっているのだろうな、などと若干皮肉めいたことを思いその場を後にする。
背後に侍従達の安堵の息が聞こえた。
……後で侍従頭に叱咤激励でも頼んでおこうか。
-------------------------------------------------------------------------
広間に足を踏み入れるのは久方振りのように思う。
相変わらず貴族達で賑わっており、時折厨房から香ばしい匂いが漂ってくる。
これは焼き魚の匂いだろうか。
母上が王に就任していた時分は、レハトとよく食べたものだと回顧する。
そういえば、あいつは魚の礼儀作法だけは不器用だったなと往時を偲び、思わず笑みが零れた。
懐かしい顔を辺りに探し、ふと気付く。
……私はレハトの成人後の顔を知らないのだ。
分化の成長とは恐ろしいもので、顔かたちが分化前のそれと大いに変わることもある。
これは迂闊だった、予定でも立てるべきだったとか後悔する。
モルを見やるが、困惑気味の表情を返すだけだった。
当たり前だろう、私は馬鹿か。
引き返すべきか否か逡巡していると、声が聞こえた。
――透き通るような、それでいてどこか懐かしい。
声の方向へ吸い込まれるようにして向く。
視線の先に、亜麻色の髪をした女性が立っていた。
その柔和な顔には、かつての面影があった。
こちらに気付いたのか、その女性は満面の笑みで手を振る。
「レハ……」
――レハト。
誰かが、その名を呼んだ。
人混みを挟み、私のすぐ隣。成りのいい貴族の青年だった。
青年はレハトに駆け寄り、その体を抱きしめる。
……レハトは私に笑顔を向け、手を振っていたわけではなかった。
もしかしたら、私の存在にすら気付いていなかったのかもしれない。
可笑しい、と思う。なぜこんな気持ちになるのだろう。
一刻も早くその場から離れたく、レハトの姿もそこそこのまま逃げるように広間を後にした。
-------------------------------------------------------------------------
モルを引き連れ、自室まで駆け戻る。
始終先程の光景が頭を過ぎり、胸に鉛が溜まっていくようだった。
部屋の前に着き、扉を些か乱暴に開ける。
中で掃除をしていた侍従を、半ば怒号を飛ばすようにして部屋から追い出す。
苦しい、などと。
私は何と浅薄で貪婪なのだろう。横恋慕をするなど。
訣別など覚悟していたはずだ。
だが決意とは裏腹に足から力が抜け、扉に沿うようにして床に頽れる。
徒の悋気は膨れ上がり、鬱悒、胸に蟠りが蔓延っていく。
手を伸ばそうと、もう届きはしない。
曾て届いたであろうその手を振り払ったのは他の誰でもない。
この私なのだから。
なぜ友人として、レハトに会えなかったのか。
なぜ今更、このような気持ちが溢れ出すのか。
服に濃い色が落ちた。
見て見ぬ振りをした。己の心に気付かない振りをした。
きっとまた会えると。分化前のように。
多少の諍いがあろうと、また元のように笑顔で会えると。
否、私がレハトとあの青年に挨拶をすれば。
彼女は快くそれを受け入れ、笑顔を向けただろう。
逃げたのは私だ。受け止められていないのも私だ。変われていないのも、私だ。
……忘れよう。レハトは今あの青年と幸せな家庭を築いているはずだ。
また、また会えばきっと。その時は。
一際濃い色が服へと真っ直ぐに落ちていった。
-------------------------------------------------------------------------
小さな姿を目で追っていた。
無邪気に中庭を走り回り、何がそんなに面白いのかとても楽しそうに笑う。
羊皮紙にペンを走らせ、拙い字で書いた戯書を意気揚々と見せにくる。
ダメ出しをすれば頬が膨れ、褒めてやると破顔した。
ころころと変わる表情を見ているのは、私にとって新鮮で興味深いものだった。
私の腕を掴みレハトは言う。
会えてよかった、と。
それは私も、お前と――
見慣れた天蓋が目に映る。
窓から柔らかに差し込む朝日が、寝台を仄かに照らしている。
「……夢、か」
夢を見た。
レハトがまだ、小さな子どもだったときの夢だ。
寝返りを打ち、布団に顔を埋めるようにして身を丸くする。
今日は寒い。あと少しだけ、この微睡に身を委ねたいと思った。
-------------------------------------------------------------------------
レハトとの邂逅から二週ほどだったある日。
自室の鐘が客の来訪を告げた。
「……レハト」
扉を開けると、目の前でひらひらと手を振っていたのは彼女だった。
未分化の時分では決して着なかったであろう薄紅色のドレスが、細い体躯によく似合っていた。
「急にごめんね。まだタナッセがお城にいるって聞いて。顔が見たいと思ったの」
あの青年にしていたような、艶やかでいてほっとするような温かい笑みが零れる。
そう思った瞬間に、あの時の光景が再び脳裏を過ぎる。
慌てて掻き消すように小さく首を振ると、レハトは不思議そうに首を傾げた。
「あ、そうだ。タナッセ、今暇あるかな」
「特に用はないが。顔を見に来ただけではないのか」
「そのつもりだったんだけど……」
俯き歯切り悪く答えたかと思うと、急に顔を上げぱっと晴れやかな顔をし彼女は言った。
「久しぶりに顔を見たらお茶一緒に飲みたくなっちゃった。どう?」
この前はレハトと話す機会を逃してしまった。
これは奇しくも、アネキウスが与えた幸運とでも思おう。
「……いつだ」
そう尋ねると殊更明るい表情になった。
愛嬌のある、くすぐったい笑顔だった。
「今からじゃダメかな?何か作業でもしてた?」
「いや、していない。今からか。その……」
「……私と茶など飲んで、平気なのか」
どういうことか分からない、とでも言いたそうにレハトは眉を顰めた。
「あ、ああ。別に嫌だということではない。そうではなくて……だから、お前は……その」
「もしかして私のこと心配してくれるの?あはは、大丈夫よ。あの人気にしないから」
――あの青年か。
思わず言葉が漏れた。取り繕うよう矢継ぎ早に言葉を重ねる。
「いや、なんでもない。そうか、それならそうだな。広間にでも移動するか」
幸いな事に彼女の耳には届かなかったようで、レハトは笑顔で首肯った。
-------------------------------------------------------------------------
広間まで廊下を移動中、まだ祝辞を述べていないことを思い出す。
席に着いてからの方がいいかと思ったが、広間はあの騒がしさだ。
今言っておいた方がいいだろう。
「そういえば、お前は結婚したのだったな。……おめでとう」
笑って言ってやろうかと思ったが、上手く笑顔が作れているのか分からない。
それでも、レハトは嬉しそうに受け取ってくれた。
「ありがとう。一番最初にタナッセに伝えたかったのだけど。ほら、成人の儀でばたばたしちゃって」
「ああ、それは…… 気にしなくていい。その、順序が可笑しいが。成人おめでとう」
くすくすと笑いながらありがとうと言われる。
私は今どんな顔をしているのだろう。
そうこうしているうちに、辺りから芳しい香りが漂ってくる。
いつの間にか広間に着いていたようだ。
レハトが早く早くと急かす。こういうところは以前と変わらないのだなと懐かしく思った。
-------------------------------------------------------------------------
席に着くと、レハトが近くにいた侍従に紅茶とお茶請けを頼む。
来るまでの間どう話題を繋ごうか悩んでいると、彼女が先に口を開けた。
「本当に久しぶりだね。元気だった?」
「ああ。お前は変わり……いや、変わりはあったな。……綺麗になった」
目を大きく見開き、こちらをじっと見てくる。何か変な事を言っただろうか。
「きれ…… タナッセもそういうこと言えるようになったんだね」
「私を馬鹿にしていないか」
そんなことないよとレハトがくつくつ笑う。鈴の音のような彼女の声はとても心地が良かった。
「またこうして会えて嬉しいなぁ…… 年明け前後からに会いに行けてなくてごめんね」
「お前も譲位の儀や成人の儀で忙しかったのだろう。それに、婚姻の儀でも」
最後の一言は余計だった、と我ながらに思う。
まるで嫉み…… いや、まるでではない。事実嫉んでいるのだろう。あの青年に。レハトに。
「うん…… ごめんね」
私の失言から些か暗い雰囲気になってしまった。
どう繕えばいいのかと思っていると、丁度茶会の準備ができたらしい。
アネキウスはどうやら私に微笑んでくれたようだった。
即座に話題をそちらにずらす。
「これは……タージリンだな。香りが強いことが特徴だ。また味にも……何だその顔は」
「タナッセ変わってないなぁと思って。いいよいいよ、続けて。聞きたい」
そう言われると馬鹿にされている気しかしないのだが。
むっとして早急に言葉を切り上げてやる。
「味は渋いが深みがある。以上」
「もう、すねないでよー」
我慢できなかったのか、レハトはからからと笑いだした。
複雑な心境のままカップを口に運ぶ。…………苦い。
「タナッセは今でも詩書いてるんだよね?タナッセの新作、いつも楽しみにしてるんだよ」
思わず紅茶を噴き出すところだった。聞き捨てならない台詞が出たぞ。
……いかん、器官に入った。喉が痛い咽る。くそ、誰だこの苦い紅茶を淹れたのは。
「そ、そんなもの読んでいないで古典の一つでも読めと再三言っただろうが」
やっぱり変わってないね、とまたレハトが笑った。
-------------------------------------------------------------------------
小一時間ほど経っただろうか。
一頻り話題が出切ると、次に何を言ったらいいのか分からず口を噤む。
沈黙が痛く、レハトから視線を外し給仕中の使用人を縋る様に目で追った。
「タナッセ」
そうしていると、不意にレハトから名を呼ばれる。
ゆるゆるとそちらに顔を向けると、思いの外真剣な顔が向けられていた。
大きく、零れ落ちそうな瞳でじっとこちらを見据えてくる。
胸がちりちりと焦がれ、頭の奥がかぁっと熱くなるのが分かった。
私は、どこかおかしい。
そう思っていると、不意にレハトの顔が緩んだ。
今日見た中で一番、嬉しそうな、楽しそうな。それでいてどこか寂しそうな表情だった。
まるで内緒話でもするように、彼女は耳に口を寄せ呟く。
「私ね、タナッセの事今でも好きだよ」
耳を疑った。
今、奴は何と言った?
「なんだ、と」
息のかかった耳が異様に熱い。
言葉は聞き取れているはずなのに、脳内で処理が追いついていない。
レハトが言い間違えたのか、それとも私が聞き間違えたのか。
答えはそのどちらでもなかった。
「だから、私は今でも…… ううん、違うね」
「今は友達として、好きだよ」
「そ……」
分かっていた、事だ。理解していた、事だ。
あの時。レハトが告白してきたあの時。私はその想いを受け取らなかった。
こうなることなど、覚悟していたはずだ。
……はず、だ。
私はどこかで期待していたのだ。
レハトはまた、告白してくれるだろうと。私を愛してくれるのだろうと。
そんなもの自惚れに過ぎない。
手放したのは己なのだから。
この私なのだから。
「そう、か」
絞り出した声は情けなく掠れ、辺りの喧騒に溶けて行った。
-------------------------------------------------------------------------
モルを引き連れ、自室までの廊下を歩く。
レハトとは、先だってに広間で別れていた。
あの青年が、来ていたからだ。
件の人物を見つけると、レハトは俄かに明るくなり私には決して見せないような晴れやかな顔をした。
以前であればきっと届いたであろう、その顔を。
「はっ…… 私は、私は何を羨んで…… 何を嫉んでいるのだ……」
レハトの為だなんだと言いつつ、結局私はレハトの本心を知りたかったのだ。
きっと、離れればその分近付いてくれるのだと、追いかけてくれるのだと。
拒絶しても、きっと。
自然と足が早まる。胸から喉へ、何かが込み上げてくる。
一刻も早く部屋に戻りたかった。全て投げ出し、寝台に伏せたかった。
二度目だろうか。こんな思いをするのは。
彼女に会っても、何も変わらなかった。
変わるどころか、己の惨めさに輪がかかっただけだ。
自室の扉に手を掛けたところで、手から力が抜けた。
何の変哲もない扉が。今まで幾度となく触れてきた扉が。
まるで、レハトと出会う前に閉ざし切っていた。
自分の心を包む殻のように見えたのだ。
「……馬鹿らしい」
弛緩しきっていた筋肉に力を入れ、自室の扉を開ける。
来訪鐘の軽い音と比例し、扉は鈍い音を立て背後でゆっくりと閉じていった。
-------------------------------------------------------------------------
――愛していた。
本当はずっと。お前の事を愛していた。
その笑顔も、その仕草も。
透き通るような髪も、細い指も。
泣き虫な性格も。それでいて、決して諦めない芯の強さも。
その全てを愛していた。
本当は、愛していたんだ。
普段着のまま寝台に潜り込み、どれほど経ったのだろう。
開け放った蔀窓からは、時折松籟と月明かりが届く。
「もう、こんな時間か」
気怠い温かさと微睡が身を覆っていく。
このまま溶けて消えてしまえば。
この胸に蟠る思いも、鉛も。全て。
「……なんだというんだ」
好きだった、愛していた。
違う。
好きだ、愛している。
未だって狂おしいほどに愛してる。
もう願ってはいけない。もう近付いてはいけない。
その手を取ることも、その笑顔を見ることも。
許されてはいけない。
そんなことは分かっている。とうの昔に理解している。
それでも愛している。愛してる!愛しているんだ!
自覚してしまえば虚しく、されど焦燥は留まる処を知らず。
溢れた感情の抑え方など、私は知らない。
気付けば褥に跡が残るほど強く握っていた。
これ以上寝台に身を委ねていてはいけない。
自身を叱咤し、重い身体を上げる。
覚束ない足取りで露台に出ると、冷たく心地よい風がすぐ脇を吹き抜けた。
月は煌々と湖面を照らし、静かにその身を揺蕩えている。
静謐が辺りを包み込む。
露台に体を委ね空を見上げると、以前レハトと共に月を見た事を思い出した。
もしもあの時、私が手を取れば。
きっと今頃お前と、この月を見ていたのだろう。
「……月が、綺麗だな。……今日も……変わらず」
-------------------------------------------------------------------------
………………
誰かが私を呼んでいる。
草原にいる。ああ、楽しそうに。
…………これは、夢だ。
レハトが、私の傍にいるはずがない。
これは、私の夢想だ。下らない、懸想だ。
お前はどうして笑う?お前はどうして、そうなんだ?
なぁレハト、私は
………………
「……下らない」
涙など。
「下らない」
-------------------------------------------------------------------------
まだ薄暗い明朝、衣擦れの音で目が覚めた。
寝台から首だけを動かし、ぼんやりと蔀窓を見やる。
あの広間での一件から、私は彼女を避け続けていた。
時折、レハトが部屋を訪ねてきていた事は知っている。
今更会うことなど出来なかった。
どんな顔をし、どんな話をし、どう接すればいいのか私にはわからない。
最早、以前のように友人として意識することなどできない。
どう足掻こうと彼女の影が私に付きまとう。
振り払おうとしても、出来るはずがない。
近付いてはいけないと思いつつも、私はそれを望んでいないのだから。
毎晩、夢想の彼女に魘される。手を伸ばしても、レハトは夢の中で微笑むだけだった。
ただそれだけなのに、酷く胸が痛む。
レハトは笑う。だがそれは、私が求めているものではない。
覚悟など、都合のいい自己弁護に過ぎなかった。
私はどうしたらいいのだろう。
そう稠林していると、またもや衣擦れの音がした。
ほんの小さな音だ。しかし、それは私から出たものではない。
音がしたであろう方向を一瞥する。
……小間使いでも来ているのだろうか。
そろそろと寝台から起き上がり、扉に手を掛ける。
「こんな時間……に……」
眼前に現れたその姿を視認するや否や、体が強張り目を瞠る。
「タナッセ」
なぜ。
「なぜ、お前がいるんだ」
立っていたのは、レハトその人だった。
-------------------------------------------------------------------------
「えへへ、ごめんね。こんな時間に。でもどうしても会いたかったの」
なぜ。
「私、明日にはお城出るんだ。……ディットンよりも遠いところ。もう、タナッセに会えないと思うから」
なぜ。
「だから、最後にまたお茶会したいなって。お昼だとばたばたしちゃうからさ」
「……なぜ」
気付けば、己の口からレハトを誹議する言葉が濁流のように溢れ出ていた。
その言の葉を聞く彼女の顔が、苦渋に満ちていく。
そんな顔をさせたかった訳ではない。こんなことを言いたい訳ではない。
それなのに、心にもないことが。裏腹な感情が募っては吐露される。
初めて、人の為に慟哭した。
初めて、誰かを愛おしいと思った。
初めて、初めて、初めて。
私にとってお前は全てだった。
大切にしたかった。だからこそ、私は。
「……すま、ない。私は、何を言っているのだろうな。私が、お前を……」
私はおかしいのだ。
お前に囚われている。もう二度と手に入ることはないのに。
その手を振り払ったのは、私なのに。
レハトから背を向け、逃げるように露台に駆け込んだ。
その行為に意味がないなど分かっていた。
ただ、触れてしまいそうで怖かった。壊してしまいそうで怖かった。
触れてはいけない。決して、触れては。
なのに。
「レハト」
どうしてお前は追ってくる。
私は、私はどうしたらいい。
「レハト……」
どうか、赦してほしい。
惨めな私を、怯懦な私を、どうか赦してほしい。
何度も夢で見た。お前の事を。
どうしてあの時、私はお前の想いを受け止めなかったのだろう。
どうして私は、己の気持ちに嘘を吐いたのだろう。
「……っ」
縋る様に伸ばした腕を、レハトは拒絶しなかった。
だが、受け止めもしなかった。
「愛してる」
服に濃い色が落ちた。
「愛してる」
温もりが心地良かった。
「あい、してる」
――――ごめんね
きっと、もう二度とレハトに会うことはないだろう。
朝焼けが露台を優しく照らす中、嗚咽が辺りに響いていた。
------------------------------------------------------------------------------
2012.12.6 UP 2013.1.31
木々から松籟が耳に届き、吹き抜ける風で肩布が飛ばされそうになる。
そんな中、私はある人物を待っていた。
先だって話したことを思い出し、目を閉じる。
――自室にて詩の上梓をしている際に、奴が訪ねてきた。
いつもなら無遠慮に扉を開けていくであろうが、その日は違っていた。
おずおずといった調子で中に入り、私が示した椅子につく。
常日頃は饒舌な奴が、珍しく舌を鈍らせて私に告げた。
話があるのだと。次の週の休み、中庭に来て欲しいのだ、と。
その時から多少覚悟はしていた。最近あいつが私に向ける視線。
それは何か熱のようなものだったと、今にしても思う。
しかし、それが起きては――
そう回顧している間に、奴が――レハトが来ていたらしい。
「……来ていたのなら声を掛けろ。呼び出したのはお前だろうが」
ごめん、そうぼそりと呟かれる。調子が狂う、やりづらい。
呼び出した理由はなんなのか、人を待たせているのだから早くしろ。
居心地の悪さからそう足早に言うと、レハトは口ごもりつつ告げた。
――私、タナッセが好きだよ。
-------------------------------------------------------------------------
それは起きてはならなかった。
決して、起きてはならなかったのだ。
「私が好き、だと?」
レハトは言った。
私の事が好きなのだと。友達としてではなく、男性として好きなのだと。
私も、こいつのことは……レハトの事は嫌いではない。
はっきりと言ってしまえば、好きなのだろう。
だが認める訳にはいかなかった。
私の城での扱いはよくない。レハトもよく知っているはずだ。
きっと、それも承知で告白してくれたのだろう。
嬉しかった。素直に、レハトの好意が嬉しかった。
それでも。
「お前の気持ちは分かった。だが、それだけだ。分かるだろう?」
私と伴を共にすれば、その揶揄は私だけに留まらずレハトにも向く。
やがて城から城下へと露見していくだろう。
それだけはどうしても避けたかった。
「これで話は終わりだ。お前が納得しようとも、しなくともな」
こちらを見つめるレハトの瞳が大きく揺らいだように見えた。
きっと、風のせいだろう。
端正な唇が何事かを呟いたが、その言の葉は風に掻き消え耳に届くことはなかった。
-------------------------------------------------------------------------
それから、幾ばくかの月日が流れた。
レハトは傷心した様子を億尾にも出さず、変わらず私に話しかけてくる。
やれこの詩はどういう意図なのか、やれここの歴史はどうなのか。
図書室で文官にでも聴けば分かるようなことを、奴は私に聞いてきた。
レハトなりの甘え方なのだろう。
馬鹿な奴だ、と思いつつもつい答えてしまう。
しかし、私は徐々にレハトを避けるようになった。
私と、奴は違う。
レハトは寵愛者であり、王の証たる徴をその額に持つ。
私はあと数月でうらぶれる。もはや肩書きだけの王子ですらない。
そんな私と共にいるなど、あいつにとって良い影響な訳がなかった。
レハトは私にとって唯一無二の知己だ。
だからこそ、私なんぞのせいで奴の名声に傷など付けたくなかった。
尤も、聡いレハトの事だ。私の意図も汲み取るだろう。
人の想いは時の流れと共に移ろいでいく。
そのうち、レハトからの来訪はなくなり次第に離れ方となっていった。
文机につきながら、ぼうとそんなことに思いを巡らせる。
いつしか詩嚢を肥やすことも忘れ、詩を綴る手も止まっていたようだ。
噂によれば、レハトはとある貴族と好い仲になっているらしい。
喜ばしい反面、どこか寂しさを覚えた。
「これで、よかったんだろうさ」
以前は決して湧かなかったであろう感情を抱き、思わず一人ごちる。
露台から外を見やれば、月が静かに湖面を照らしていた。
-------------------------------------------------------------------------
六代目国王……ヴァイルへの譲位も落ち着いてきた頃。
あることが気にかかり、私は城に留まっていた。
情けないことに、未だレハトの成人後の姿を見れていないのだ。
知己への挨拶の一つもすべきだと思い、その姿を探し廊下を歩いていた。
道中、廊下の隅で話す侍従達の声が耳に届く。
――聞いた?レハト様、領主様に求婚されたんだって――
――知ってる知ってる。どうやら求婚、お受けになったそうよ――
ああ。受けた、のか。
特段珍しいことではない。
レハトには好い仲の貴族がいたという噂であったし、冠は頂けなくとも寵愛者だ。
縁談など山のように届くだろう。
「おい、そこの侍従達」
いきなり声を掛けられたせいか、侍従達は大げさなほど背をびくりとさせこちらを向く。
「お、王息殿下様。どう致しましたか?その、私たちは別に……」
「私はもう王息殿下ではない。それはいいのだ、レハトを知らないか?」
サボっていたことを咎められると思っていたのだろう。
間の抜けたような面をし、侍従達は顔を見合わせた。
「レハト様、ですか?いつもなら広間の方でよくお顔をお見かけしますが」
「そうか、感謝する」
さぞ見目麗しくなっているのだろうな、などと若干皮肉めいたことを思いその場を後にする。
背後に侍従達の安堵の息が聞こえた。
……後で侍従頭に叱咤激励でも頼んでおこうか。
-------------------------------------------------------------------------
広間に足を踏み入れるのは久方振りのように思う。
相変わらず貴族達で賑わっており、時折厨房から香ばしい匂いが漂ってくる。
これは焼き魚の匂いだろうか。
母上が王に就任していた時分は、レハトとよく食べたものだと回顧する。
そういえば、あいつは魚の礼儀作法だけは不器用だったなと往時を偲び、思わず笑みが零れた。
懐かしい顔を辺りに探し、ふと気付く。
……私はレハトの成人後の顔を知らないのだ。
分化の成長とは恐ろしいもので、顔かたちが分化前のそれと大いに変わることもある。
これは迂闊だった、予定でも立てるべきだったとか後悔する。
モルを見やるが、困惑気味の表情を返すだけだった。
当たり前だろう、私は馬鹿か。
引き返すべきか否か逡巡していると、声が聞こえた。
――透き通るような、それでいてどこか懐かしい。
声の方向へ吸い込まれるようにして向く。
視線の先に、亜麻色の髪をした女性が立っていた。
その柔和な顔には、かつての面影があった。
こちらに気付いたのか、その女性は満面の笑みで手を振る。
「レハ……」
――レハト。
誰かが、その名を呼んだ。
人混みを挟み、私のすぐ隣。成りのいい貴族の青年だった。
青年はレハトに駆け寄り、その体を抱きしめる。
……レハトは私に笑顔を向け、手を振っていたわけではなかった。
もしかしたら、私の存在にすら気付いていなかったのかもしれない。
可笑しい、と思う。なぜこんな気持ちになるのだろう。
一刻も早くその場から離れたく、レハトの姿もそこそこのまま逃げるように広間を後にした。
-------------------------------------------------------------------------
モルを引き連れ、自室まで駆け戻る。
始終先程の光景が頭を過ぎり、胸に鉛が溜まっていくようだった。
部屋の前に着き、扉を些か乱暴に開ける。
中で掃除をしていた侍従を、半ば怒号を飛ばすようにして部屋から追い出す。
苦しい、などと。
私は何と浅薄で貪婪なのだろう。横恋慕をするなど。
訣別など覚悟していたはずだ。
だが決意とは裏腹に足から力が抜け、扉に沿うようにして床に頽れる。
徒の悋気は膨れ上がり、鬱悒、胸に蟠りが蔓延っていく。
手を伸ばそうと、もう届きはしない。
曾て届いたであろうその手を振り払ったのは他の誰でもない。
この私なのだから。
なぜ友人として、レハトに会えなかったのか。
なぜ今更、このような気持ちが溢れ出すのか。
服に濃い色が落ちた。
見て見ぬ振りをした。己の心に気付かない振りをした。
きっとまた会えると。分化前のように。
多少の諍いがあろうと、また元のように笑顔で会えると。
否、私がレハトとあの青年に挨拶をすれば。
彼女は快くそれを受け入れ、笑顔を向けただろう。
逃げたのは私だ。受け止められていないのも私だ。変われていないのも、私だ。
……忘れよう。レハトは今あの青年と幸せな家庭を築いているはずだ。
また、また会えばきっと。その時は。
一際濃い色が服へと真っ直ぐに落ちていった。
-------------------------------------------------------------------------
小さな姿を目で追っていた。
無邪気に中庭を走り回り、何がそんなに面白いのかとても楽しそうに笑う。
羊皮紙にペンを走らせ、拙い字で書いた戯書を意気揚々と見せにくる。
ダメ出しをすれば頬が膨れ、褒めてやると破顔した。
ころころと変わる表情を見ているのは、私にとって新鮮で興味深いものだった。
私の腕を掴みレハトは言う。
会えてよかった、と。
それは私も、お前と――
見慣れた天蓋が目に映る。
窓から柔らかに差し込む朝日が、寝台を仄かに照らしている。
「……夢、か」
夢を見た。
レハトがまだ、小さな子どもだったときの夢だ。
寝返りを打ち、布団に顔を埋めるようにして身を丸くする。
今日は寒い。あと少しだけ、この微睡に身を委ねたいと思った。
-------------------------------------------------------------------------
レハトとの邂逅から二週ほどだったある日。
自室の鐘が客の来訪を告げた。
「……レハト」
扉を開けると、目の前でひらひらと手を振っていたのは彼女だった。
未分化の時分では決して着なかったであろう薄紅色のドレスが、細い体躯によく似合っていた。
「急にごめんね。まだタナッセがお城にいるって聞いて。顔が見たいと思ったの」
あの青年にしていたような、艶やかでいてほっとするような温かい笑みが零れる。
そう思った瞬間に、あの時の光景が再び脳裏を過ぎる。
慌てて掻き消すように小さく首を振ると、レハトは不思議そうに首を傾げた。
「あ、そうだ。タナッセ、今暇あるかな」
「特に用はないが。顔を見に来ただけではないのか」
「そのつもりだったんだけど……」
俯き歯切り悪く答えたかと思うと、急に顔を上げぱっと晴れやかな顔をし彼女は言った。
「久しぶりに顔を見たらお茶一緒に飲みたくなっちゃった。どう?」
この前はレハトと話す機会を逃してしまった。
これは奇しくも、アネキウスが与えた幸運とでも思おう。
「……いつだ」
そう尋ねると殊更明るい表情になった。
愛嬌のある、くすぐったい笑顔だった。
「今からじゃダメかな?何か作業でもしてた?」
「いや、していない。今からか。その……」
「……私と茶など飲んで、平気なのか」
どういうことか分からない、とでも言いたそうにレハトは眉を顰めた。
「あ、ああ。別に嫌だということではない。そうではなくて……だから、お前は……その」
「もしかして私のこと心配してくれるの?あはは、大丈夫よ。あの人気にしないから」
――あの青年か。
思わず言葉が漏れた。取り繕うよう矢継ぎ早に言葉を重ねる。
「いや、なんでもない。そうか、それならそうだな。広間にでも移動するか」
幸いな事に彼女の耳には届かなかったようで、レハトは笑顔で首肯った。
-------------------------------------------------------------------------
広間まで廊下を移動中、まだ祝辞を述べていないことを思い出す。
席に着いてからの方がいいかと思ったが、広間はあの騒がしさだ。
今言っておいた方がいいだろう。
「そういえば、お前は結婚したのだったな。……おめでとう」
笑って言ってやろうかと思ったが、上手く笑顔が作れているのか分からない。
それでも、レハトは嬉しそうに受け取ってくれた。
「ありがとう。一番最初にタナッセに伝えたかったのだけど。ほら、成人の儀でばたばたしちゃって」
「ああ、それは…… 気にしなくていい。その、順序が可笑しいが。成人おめでとう」
くすくすと笑いながらありがとうと言われる。
私は今どんな顔をしているのだろう。
そうこうしているうちに、辺りから芳しい香りが漂ってくる。
いつの間にか広間に着いていたようだ。
レハトが早く早くと急かす。こういうところは以前と変わらないのだなと懐かしく思った。
-------------------------------------------------------------------------
席に着くと、レハトが近くにいた侍従に紅茶とお茶請けを頼む。
来るまでの間どう話題を繋ごうか悩んでいると、彼女が先に口を開けた。
「本当に久しぶりだね。元気だった?」
「ああ。お前は変わり……いや、変わりはあったな。……綺麗になった」
目を大きく見開き、こちらをじっと見てくる。何か変な事を言っただろうか。
「きれ…… タナッセもそういうこと言えるようになったんだね」
「私を馬鹿にしていないか」
そんなことないよとレハトがくつくつ笑う。鈴の音のような彼女の声はとても心地が良かった。
「またこうして会えて嬉しいなぁ…… 年明け前後からに会いに行けてなくてごめんね」
「お前も譲位の儀や成人の儀で忙しかったのだろう。それに、婚姻の儀でも」
最後の一言は余計だった、と我ながらに思う。
まるで嫉み…… いや、まるでではない。事実嫉んでいるのだろう。あの青年に。レハトに。
「うん…… ごめんね」
私の失言から些か暗い雰囲気になってしまった。
どう繕えばいいのかと思っていると、丁度茶会の準備ができたらしい。
アネキウスはどうやら私に微笑んでくれたようだった。
即座に話題をそちらにずらす。
「これは……タージリンだな。香りが強いことが特徴だ。また味にも……何だその顔は」
「タナッセ変わってないなぁと思って。いいよいいよ、続けて。聞きたい」
そう言われると馬鹿にされている気しかしないのだが。
むっとして早急に言葉を切り上げてやる。
「味は渋いが深みがある。以上」
「もう、すねないでよー」
我慢できなかったのか、レハトはからからと笑いだした。
複雑な心境のままカップを口に運ぶ。…………苦い。
「タナッセは今でも詩書いてるんだよね?タナッセの新作、いつも楽しみにしてるんだよ」
思わず紅茶を噴き出すところだった。聞き捨てならない台詞が出たぞ。
……いかん、器官に入った。喉が痛い咽る。くそ、誰だこの苦い紅茶を淹れたのは。
「そ、そんなもの読んでいないで古典の一つでも読めと再三言っただろうが」
やっぱり変わってないね、とまたレハトが笑った。
-------------------------------------------------------------------------
小一時間ほど経っただろうか。
一頻り話題が出切ると、次に何を言ったらいいのか分からず口を噤む。
沈黙が痛く、レハトから視線を外し給仕中の使用人を縋る様に目で追った。
「タナッセ」
そうしていると、不意にレハトから名を呼ばれる。
ゆるゆるとそちらに顔を向けると、思いの外真剣な顔が向けられていた。
大きく、零れ落ちそうな瞳でじっとこちらを見据えてくる。
胸がちりちりと焦がれ、頭の奥がかぁっと熱くなるのが分かった。
私は、どこかおかしい。
そう思っていると、不意にレハトの顔が緩んだ。
今日見た中で一番、嬉しそうな、楽しそうな。それでいてどこか寂しそうな表情だった。
まるで内緒話でもするように、彼女は耳に口を寄せ呟く。
「私ね、タナッセの事今でも好きだよ」
耳を疑った。
今、奴は何と言った?
「なんだ、と」
息のかかった耳が異様に熱い。
言葉は聞き取れているはずなのに、脳内で処理が追いついていない。
レハトが言い間違えたのか、それとも私が聞き間違えたのか。
答えはそのどちらでもなかった。
「だから、私は今でも…… ううん、違うね」
「今は友達として、好きだよ」
「そ……」
分かっていた、事だ。理解していた、事だ。
あの時。レハトが告白してきたあの時。私はその想いを受け取らなかった。
こうなることなど、覚悟していたはずだ。
……はず、だ。
私はどこかで期待していたのだ。
レハトはまた、告白してくれるだろうと。私を愛してくれるのだろうと。
そんなもの自惚れに過ぎない。
手放したのは己なのだから。
この私なのだから。
「そう、か」
絞り出した声は情けなく掠れ、辺りの喧騒に溶けて行った。
-------------------------------------------------------------------------
モルを引き連れ、自室までの廊下を歩く。
レハトとは、先だってに広間で別れていた。
あの青年が、来ていたからだ。
件の人物を見つけると、レハトは俄かに明るくなり私には決して見せないような晴れやかな顔をした。
以前であればきっと届いたであろう、その顔を。
「はっ…… 私は、私は何を羨んで…… 何を嫉んでいるのだ……」
レハトの為だなんだと言いつつ、結局私はレハトの本心を知りたかったのだ。
きっと、離れればその分近付いてくれるのだと、追いかけてくれるのだと。
拒絶しても、きっと。
自然と足が早まる。胸から喉へ、何かが込み上げてくる。
一刻も早く部屋に戻りたかった。全て投げ出し、寝台に伏せたかった。
二度目だろうか。こんな思いをするのは。
彼女に会っても、何も変わらなかった。
変わるどころか、己の惨めさに輪がかかっただけだ。
自室の扉に手を掛けたところで、手から力が抜けた。
何の変哲もない扉が。今まで幾度となく触れてきた扉が。
まるで、レハトと出会う前に閉ざし切っていた。
自分の心を包む殻のように見えたのだ。
「……馬鹿らしい」
弛緩しきっていた筋肉に力を入れ、自室の扉を開ける。
来訪鐘の軽い音と比例し、扉は鈍い音を立て背後でゆっくりと閉じていった。
-------------------------------------------------------------------------
――愛していた。
本当はずっと。お前の事を愛していた。
その笑顔も、その仕草も。
透き通るような髪も、細い指も。
泣き虫な性格も。それでいて、決して諦めない芯の強さも。
その全てを愛していた。
本当は、愛していたんだ。
普段着のまま寝台に潜り込み、どれほど経ったのだろう。
開け放った蔀窓からは、時折松籟と月明かりが届く。
「もう、こんな時間か」
気怠い温かさと微睡が身を覆っていく。
このまま溶けて消えてしまえば。
この胸に蟠る思いも、鉛も。全て。
「……なんだというんだ」
好きだった、愛していた。
違う。
好きだ、愛している。
未だって狂おしいほどに愛してる。
もう願ってはいけない。もう近付いてはいけない。
その手を取ることも、その笑顔を見ることも。
許されてはいけない。
そんなことは分かっている。とうの昔に理解している。
それでも愛している。愛してる!愛しているんだ!
自覚してしまえば虚しく、されど焦燥は留まる処を知らず。
溢れた感情の抑え方など、私は知らない。
気付けば褥に跡が残るほど強く握っていた。
これ以上寝台に身を委ねていてはいけない。
自身を叱咤し、重い身体を上げる。
覚束ない足取りで露台に出ると、冷たく心地よい風がすぐ脇を吹き抜けた。
月は煌々と湖面を照らし、静かにその身を揺蕩えている。
静謐が辺りを包み込む。
露台に体を委ね空を見上げると、以前レハトと共に月を見た事を思い出した。
もしもあの時、私が手を取れば。
きっと今頃お前と、この月を見ていたのだろう。
「……月が、綺麗だな。……今日も……変わらず」
-------------------------------------------------------------------------
………………
誰かが私を呼んでいる。
草原にいる。ああ、楽しそうに。
…………これは、夢だ。
レハトが、私の傍にいるはずがない。
これは、私の夢想だ。下らない、懸想だ。
お前はどうして笑う?お前はどうして、そうなんだ?
なぁレハト、私は
………………
「……下らない」
涙など。
「下らない」
-------------------------------------------------------------------------
まだ薄暗い明朝、衣擦れの音で目が覚めた。
寝台から首だけを動かし、ぼんやりと蔀窓を見やる。
あの広間での一件から、私は彼女を避け続けていた。
時折、レハトが部屋を訪ねてきていた事は知っている。
今更会うことなど出来なかった。
どんな顔をし、どんな話をし、どう接すればいいのか私にはわからない。
最早、以前のように友人として意識することなどできない。
どう足掻こうと彼女の影が私に付きまとう。
振り払おうとしても、出来るはずがない。
近付いてはいけないと思いつつも、私はそれを望んでいないのだから。
毎晩、夢想の彼女に魘される。手を伸ばしても、レハトは夢の中で微笑むだけだった。
ただそれだけなのに、酷く胸が痛む。
レハトは笑う。だがそれは、私が求めているものではない。
覚悟など、都合のいい自己弁護に過ぎなかった。
私はどうしたらいいのだろう。
そう稠林していると、またもや衣擦れの音がした。
ほんの小さな音だ。しかし、それは私から出たものではない。
音がしたであろう方向を一瞥する。
……小間使いでも来ているのだろうか。
そろそろと寝台から起き上がり、扉に手を掛ける。
「こんな時間……に……」
眼前に現れたその姿を視認するや否や、体が強張り目を瞠る。
「タナッセ」
なぜ。
「なぜ、お前がいるんだ」
立っていたのは、レハトその人だった。
-------------------------------------------------------------------------
「えへへ、ごめんね。こんな時間に。でもどうしても会いたかったの」
なぜ。
「私、明日にはお城出るんだ。……ディットンよりも遠いところ。もう、タナッセに会えないと思うから」
なぜ。
「だから、最後にまたお茶会したいなって。お昼だとばたばたしちゃうからさ」
「……なぜ」
気付けば、己の口からレハトを誹議する言葉が濁流のように溢れ出ていた。
その言の葉を聞く彼女の顔が、苦渋に満ちていく。
そんな顔をさせたかった訳ではない。こんなことを言いたい訳ではない。
それなのに、心にもないことが。裏腹な感情が募っては吐露される。
初めて、人の為に慟哭した。
初めて、誰かを愛おしいと思った。
初めて、初めて、初めて。
私にとってお前は全てだった。
大切にしたかった。だからこそ、私は。
「……すま、ない。私は、何を言っているのだろうな。私が、お前を……」
私はおかしいのだ。
お前に囚われている。もう二度と手に入ることはないのに。
その手を振り払ったのは、私なのに。
レハトから背を向け、逃げるように露台に駆け込んだ。
その行為に意味がないなど分かっていた。
ただ、触れてしまいそうで怖かった。壊してしまいそうで怖かった。
触れてはいけない。決して、触れては。
なのに。
「レハト」
どうしてお前は追ってくる。
私は、私はどうしたらいい。
「レハト……」
どうか、赦してほしい。
惨めな私を、怯懦な私を、どうか赦してほしい。
何度も夢で見た。お前の事を。
どうしてあの時、私はお前の想いを受け止めなかったのだろう。
どうして私は、己の気持ちに嘘を吐いたのだろう。
「……っ」
縋る様に伸ばした腕を、レハトは拒絶しなかった。
だが、受け止めもしなかった。
「愛してる」
服に濃い色が落ちた。
「愛してる」
温もりが心地良かった。
「あい、してる」
――――ごめんね
きっと、もう二度とレハトに会うことはないだろう。
朝焼けが露台を優しく照らす中、嗚咽が辺りに響いていた。
------------------------------------------------------------------------------
2012.12.6 UP 2013.1.31